今のインターネットには自信にあふれた馬鹿が足りない | 砂上の賃貸

今のインターネットには自信にあふれた馬鹿が足りない

最近更新さぼってました。色々書こうとかなと思ったネタ(←最近、取り扱い危険ワードに指定されました)はあったんだけど、どうにも不機嫌な内容になりそうで、そこをまたどう上手く骨折させるかも思い浮かばなかったのであまり書かないでいたらどんどんテンションが下がってやる気低下してました。数少ない定期巡回者の方々には軽くごめんなさいしておきます。

で、つらつらととりとめのない話を書くのだけれど、最近ネットを巡回していて思うのは、被害者意識を身にまとった攻撃性だったり、大義名分をかざして自分の感情を守ったみみっちい正論もどきだったり、何というか臆病で情けない人が目立つ。いや、別にそういうのは今に始まったことじゃなくて以前から普通にいて、単に俺がそういう人たちを最近よく意識することで特に眼についているだけでしかないとは思うのだけど。

個々の議論(という言葉が適切かどうかも疑問な、わりとどうでもいいせせっこましい話)についてはここでは触れない。それはめんどくさいし、何より、俺がそれらの話の一つ一つに対して「いや、それはこうじゃないか」みたいなことを書いてもそれを伝えたいと思うべき相手の耳には届かず、元々同じ意見を持つ人間に対する共感の道具にしかならないんじゃないかという絶望的な気分が大きい。


これはわりと以前から思っていることだが、ネットは説得のツールとしては向いていない。ことに、感情的に意見が対立しているときには。だからそういう意見の対立を目にしたときは、いかに二項対立の不毛の大地から抜け出すオルタナティブな視点を見つけるか、あるいはシニカルな態度と思われようと観察者に徹することで争い自体を消費して楽しむかというのが大事だと思っている。それ以外にもっとスマートかつみんな楽しめるやり方があればいいのだけれど。

しかし、立て続けにいくつかのトホホなもめ事を見ていて、しかもそのどれもにどうしようもない臆病な叫びを見てしまうと、やりきれなくなってしまう。そりゃ自分と相容れない意見なんていくらでもあるし、自分の好きなものを否定されたりしたら多少は傷つくでしょうよ。でも、だからと言ってその傷ついた感情をかさに着るように振り回してわめくのは小学生のやることだし、自分の感情を満たすために大義名分を持ち出して相手を叩くのはまさに厨房だ。

軽く5年かそこら前のインターネットを自分なりに振り返って思うのは、昔はもっと自信に満ちあふれていた人が多かった気がする。何というか、自信にあふれた馬鹿、これが本当に減った。自信にあふれた馬鹿という言い方では抽象的すぎて誤解を招くかもしれないから、俺がイメージする自信にあふれた馬鹿の一例をあげると、これ だ。見ろ、この自信たっぷりな姿。「Welcone!心から歓迎!」だぞ。「現在使用されている HTML の限界に類するモノもある様です」だぞ。こっちが限界だよ!

自戒をこめて書くが、今のインターネットに足りないもの、それは、自信にあふれた愛すべき馬鹿だ。何かに脅えて身を守りたくなったときは迷わずこれ を見よう。そして、心の奥底に沈んだ馬鹿魂を呼び戻せ。

Welcone!心から歓迎!