人は立ち位置から自由になれないのだろうか | 砂上の賃貸

人は立ち位置から自由になれないのだろうか

ネット上のある出来事についてAという人がxと認識し、その認識を表に示した。それに対し、その出来事の周辺にいたBという人が「その認識は違う。xではなくyだ」と言っていた。

その出来事をリアルタイムで見ていた俺の認識では、それはxに相当して不思議のないものだった。少なくともBの人の認識は視野がやや狭く、客観性が欠けたものに見えた。

ここで、俺はBの人に対して認識の違いを示そうかと考えた。

それとは別に、俺は普段からAの人の言う内容に納得したり似た認識を持つことが多く、好意的に見ている人だった。また、Bの人については存在は認識していたが、好意も嫌悪も持っていなかった。

Bの人の今回の文章では、Aの人に対して感情的な非難を含んだ言い回しが見られ、俺はそれを不快に感じた。とても同意できない事実認識を元に非難していたからなおさらだった。

かなり迷ったが、俺はBの人に対して認識の違いを示すことをやめることにした。

なぜなら、感情と理性を頭の中でいくら切り離したつもりで単にBの人に対して率直に認識を示したつもりであっても、無意識のうちにAの人をかばおうという気持ちがこもってしまう可能性は否定できず、また、当事者であるAの人本人が反論できることをわざわざ当事者でない俺が反論するという態度は俺にとっては望ましくない、美学に反することであり、Aの人にとっても必ずしも嬉しくないことだと想像できるだからだ。

また、俺がそれを行ったときにさらなる第三者から見て、俺がAの人の取り巻き的に擁護しているように見られる可能性もあり、Bの人がもしそう認識した場合、俺の意見はバイアスがかかったものとして受け止められるだけで、ストレートには受け取ってもらえない可能性が極めて高い。二項対立の罠に陥る危険がある。結果として、俺の意見は当事者に対して何ら利益をもたらさない。


以上の俺の考え方は、立ち位置というものを多分に意識した上での振る舞いなのだが、立ち位置に対する距離の取り方は本当に難しいと思う。

まず、自分の立ち位置を意識するかしないか。これは自意識の問題でもある。自分の立ち位置ばかり気にする自意識過剰な態度は当然望ましくない。それによって不自然な形に自分の振る舞いは制限されるし、また、自意識過剰な態度が第三者から見て取れれば、それを気にしてさらに立ち位置を気にするという無限後退に陥る。

では、立ち位置は全く意識しないほうがよいかというとそうとも言い切れず、自分が意識しようとしまいと、立ち位置を意識した上で判断する第三者は必ずいるわけで、そのギャップによって、自分の意図したことを伝えられなくなるリスクに対してとても弱い。「どんなに誤解されようとかまわない。俺は俺が思った通りのことを言うだけだ」と強く割り切っても、肝心の伝えたい相手がそう受け取らずにこちらの立ち位置を見て曲解してしまえば、伝えたいことは伝わらず、ただの自己満足になる。

もしも誰もがそういった立ち位置に意識を奪われることなく自由にフラットな視線でものを判断できたら…とも思うが、タチの悪いポジショントークから身を守ることの大事さを考えるとそうもいかないし、内容によってはそれぞれの立ち位置を明確にしないと話が空虚になってしまうことだってある。

結局の所、自分の立ち位置をある程度認識しつつも、そこに対して感情を含んだ価値判断をせずに「俺はこんな感じに受け取られるかもな」くらいに距離を置いて認識するにとどめ、その立ち位置から言葉を発するのではなく、率直でありつつも客観的な視線に耐えられる言葉を発するように心がけるしかないんだろうか。