砂上の賃貸 -6ページ目

オリッ鉄×巨人観戦記

何か色々(三国志大戦とか)忙しくて更新してませんでした、すいません。もう3日もたってしまったけど、もらいもののチケットで見に行ったオリッ鉄-巨人戦のオープン戦交流試合の観戦記でも書きます。高校くらいまでは野球かなり好き(西武ファン)だったんだけど、最近は熱も冷め切って最後に生観戦したのがけっこう昔の横浜-阪神戦。ちなみにその試合は最終回に4点リードの横浜がランナー出した時点で佐々木投入したら新庄にいきなりホームラン打たれるというなかなかいい試合だった。

6時10分くらいに友達と合流して球場に入ると、内野のなかなかいい席。オリッ鉄はさっさと三者凡退したのかすでに巨人の攻撃。席に着いたとたん巨人のバッターがホームラン。これは馬鹿試合の予感?それともさすがは大砲打線と言うべきか。ていうか矢野?誰それ。

気を取り直して試合を見ると、見事に並ぶクリーンナップ。ローズ、小久保、清原。なんつうか、パリーグじゃんこの試合。先発も工藤だし。とか思ってたらあっさり凡退。これが巨人クオリティ。

んでオリッ鉄の攻撃。とにかく少ないファンの数に泣ける。ちょうど正面に三塁側外野席が見えるんだが、応援団はほんとうにわずかな一角。アタック25の応援客と同じくらい?ってくらいの少なさ。すぐ左隣は隙間だらけ(最後まで埋まりきることはなかった)、右隣は招待なのかと思うくらい微動だにしない人たちでさらにその右は巨人ファンだし。

そんな数少ないファンに支えられたオリッ鉄がけっこう頑張る。せっかく先制点もらったのに工藤がなんかしまらないピッチングであっさり同点に。喜ぶオリッ鉄ファンの歓声は俺の席までは届かない。嗚呼。

なんというかその後も、両チーム微妙にピリッとしないピッチャーに対してさらにピリッとしない打者陣が打ちあぐねる展開が続いて、結局6回にオリッ鉄の先発パーラが小久保の三塁ベースに打球が当たるラッキーなヒットから3点取られて終わり。ていうかパーラって99年には巨人にいた んだね、当然知らなかったよ。

最終回には二死からセカンドゴロで終わったと思いきや清原がショートバウンドの送球捕り損ねて無駄に長引いたりと、最後まで締まらない、パの5位とセの最下位にふさわしい試合でした。まあ工藤が42歳でまた一つ勝てたのはよかったね、ってくらい。他の細かい見どころとしては、

・清原、凡打でも全力疾走。とにかくド迫力の全力疾走。あまり報われていないが。
・オリッ鉄のブランボーがファインプレーでも場内静か。とても報われない。
・さりげなく当たってたオリッ鉄下位打線。でも地味。
・巨人の応援にどことなくサッカーの応援の影響を感じた(「ゴー!ゴー!におっかー!」とかいう合唱とかに)。
・巨人のラッキーセブンの際に流れるdreamの変なアニソンみたいな曲に応援団すらほとんど反応なし。タイアップ失敗の見本ですね。ていうかdreamってまだ解散してなかったのか。
・ビール売りが全員女性だった。
・試合後に行った叙々苑はタレ濃すぎでつらかった。タレのせいでカニ雑炊の味もしねえ。

こんくらいか。ああ、あとオリッ鉄の三番手ピッチャーの萩原はなかなかよかった。この日投げた両チームのピッチャーで一番いい感じだった。地味にいい選手いるじゃん、オリッ鉄。と思って名鑑見たらもう14年目のベテラン だった。でも芽が出たのが10年たってからか、すごい遅咲きだ。

まあ、たとえ下位同士のしょぼい試合でも生で見ると楽しいですねってことで。でも翌日の西武ドームの試合の方が見たかったな、残念だ。

信仰ではなく信頼のために

書くかもしれない話メモ お題消化シリーズ第一弾。とりとめのない話になりそうな予感。まあつらつらと書いてみます。

マスコミに対する不信、不満の声がインターネットの普及とともにより強く顕在化しつつある今日このごろなわけだが、では果たして人々は本当にマスコミを信用しなくなったのかと言うと、決してそんなことはなくて、今もなお信用できる一次ソースの供給元としてマスコミは力を持っている。マスコミに非難の声が上がるのは期待している信頼を果たしていないからであって、東スポ(地方により大スポ、中スポ、九スポ)の記事に非難の声がほとんど上がらないのは「東スポ(地方により以下略)はああいう新聞だから」というコンセンサスがある程度できあがっていて、わざわざ非難するのは馬鹿げていると考える人が大半だからだろう。

ここ (直リン不可かもしれないので、ちゃんと表示できないときは飛び直しで)に、「もく星号の大誤報」という、昭和27年に起きた、日航旅客機「もく星号」墜落事故の際に起きた大誤報に関する記事、および、戦後から現在までに起きた新聞の誤報の一覧が載っているのだけど、読んでみると、新聞の報道がひどいのは今も昔も大差がないことが伺える。

例えば、既存のマスコミはもはや全くもって信用ができないと考えた人がいたとしても、一次情報を独力で全て手に入れることなど当然できるわけがないし、では既存マスコミに成り代わって一次情報を集約して発信する企業などが現れたらそれでいいかと言えば、それはもう新しいマスコミが一つ増えただけの話でやはりどこかで誤謬を犯す可能性はあるわけで、無批判に信頼する(すなわちそれは信仰と変わらないのだけど)ことはできないだろう。

そしてマスコミに限った話でなく世の中のありとあらゆるものが、一つ大きな事故やトラブルを起こして初めて大きく問題視されるが、そのような大きな問題が起きなかったら何の潜在的な問題や危険性もないと言えるのかというと、ほとんどの人はそれを具体的には知らない。もちろん様々な法律や制度が存在しており、行政というのはそうした目に付きにくいところで実際に色々と機能しているわけだけれど、行政もまた無謬な存在ではあり得ないわけで、では行政を監視するオンブズマンが果たして正しく監視できるのかというと……とどこまでもメタに移行したところで結局人間の行うことであって、完全にリスクのないシステムなどあり得ないだろうということがわかる。完全で安全なシステムとは信仰に他ならないと以前書いたのはそういうことだったりする。

では、直接そうした安全性、信頼性を築く側にいるわけではなく、あくまでサービスを享受する側にいる人間としてはどのように身構えればいいのか。トラブルが起きるまでは何一つ疑おうともせず、トラブルが起きて初めて非難の声をあげて過剰なまでに神経質な態度を取るという姿は、まるで信仰を裏切られたと知った人間がその裏切りに対する贖罪を求めているかのようにすら見える。とても賢い態度とは思えない。そのような泥縄的な受身でヒステリックな態度を取るのではなく、何事にもリスクは存在していることをまず自覚し、必要に応じて情報を集め、一定の信頼は置きつつも決して盲信はしない、そういった態度が求められるのではないだろうか。

三国志大戦プレイ週報

前回 のあと、五品の半ばでSR賈クをゲットしたので、喜び勇んでデッキを大幅に変更。少し前に手に入れたSR馬超も活用すべく、SR馬超、R姜維、U曹仁、R楽進、SR賈クというデッキにする。バランスも一見悪くなく、見るからに強そうな構成。が、勝てない。慣れない計略や騎馬4騎という構成でプレイングがついて行かず、激しく負けまくる。五品から六品に転落。さらには七品にまで落ちるというどうしようもないありさま。

そこで、2ちゃん@アーケード板 の質問デッキ相談スレで相談したり、自分で考えたりした結果、馬超、姜維、賈クで計略がどっちつかずになっているという結論に達し、馬超はあきらめて再び大幅にデッキを変更する。

<組み直したデッキ>
R徐晃、R周泰、R夏侯淵、R楽進、SR賈ク

なんかレアばっかりだが、バランス重視のこのデッキに変更して計略は賈クの離間の計とR夏侯淵の首都よりの援軍に絞った結果、成績が安定するようになり再び上昇する。そして五品に戻したあたりでようやくU典韋を引いたのでR周泰と差し替えて魏一色になり、ひとまずデッキは完成する。

GW中はプレイしていなかったので、現在は四品の一歩手前というところだが、わりと勝率は安定しているのでこのまま行く予定。強力な反計の使えるR荀彧やU程昱を引いたらまたデッキ再考したいが、とりあえずは変えないつもり。

<現在のデッキ>
R徐晃、U典韋、R夏侯淵、R楽進、SR賈ク

勝ちパターンは、相手を一掃して騎馬が中央で城壁に張り付き、その後ろにU典韋、さらに後ろにR夏侯淵を置くパターン。敵が出てきたら典韋が槍を振り回して夏侯淵の弓と合わせて瞬殺し、できるだけ攻城組の体力を減らさないようにする。さらに、増援の法や首都よりの援軍で回復。これがハマると大体はKO勝ちできる。ちなみに槍振り回しは上手くすると同じ武力の部隊もあっという間に殺せます。時間消費量を考えると騎馬突撃よりも強い。

現在のデッキの弱点としては、賈クを除いてみんな知力が低いので、攻撃計略や弱体系の計略に弱い。相手のデッキの構成がそれらの計略をキーにしているものだった場合は、できるだけ分散したり、無理攻めしないようにする必要あり。あと、腕の問題だが開幕がまだあまり上手でなく、4枚デッキ+開幕兵法のような敵を相手にしたときに押されることがしばしばあるので、槍と騎馬の効率的な動かし方をもっと上達させる必要あり。特にむやみに前に出て全軍乱戦にせずに、引くべきときは無理せず引くことを忘れないようにするのが重要。再起の法を使っていないため、うっかりするといきなり悲惨なことになる。

それから、GW前のことですがトレードで鮫られそうになりました。「トレードいいですか?」と持ちかけられ、「あまり出せるのないけど」と言いつつ一応お互いのSR、R見せ合いをしたところ、相手が蜀メインなのでSR馬超が欲しいとのこと。相手のカードではSR曹操以外めぼしいのがなかったので、「無理だと思いますけど、SR曹操ならいいですよ」と言ったら、なんと「今SR馬超は急速に価値下がってるからちょっと厳しいですね。SR曹操だったらSR馬超とSR劉備にあとR一枚つけて釣り合うってとこです」とのたまいやがる。やんわりと拒否しましたが、家に帰ってヤフオクや2ちゃんでレート確認したら、ちっともSR馬超の価値下がっていない。SR馬超+R二枚とか言うなら(当時のレートでは微妙にSR曹操が上なので)ともかく、SR馬超にSR劉備とR一枚追加というのは明らかな鮫。こういうろくでもないのがけっこういるようなので、知らない人とのトレードは危険です。特に情報をあまり持ち合わせていない人は「わからないので遠慮します」としっかり断るべきでしょう。

あと、行きつけのゲーセンで一人強い人がいたんですが、今日久々に会ったら覇王になっていました。さすがに覇王になると遅い時間では相手がいないことも多いようで、閉店間際の対戦は全部四品が相手で勝ってもポイント10とかいう対戦でした。しかも四品相手だからと言って確実に勝てるわけでもないからけっこうしんどそう。でも全部勝ってたけど。ちなみにその人のデッキは改造型の黄布デッキで、以下のような構成。

<地元の覇王の人のデッキ>
SR呂布、R楽進、SR賈ク、U周倉、C張宝、C張梁

開幕は左右どちらかに二列縦隊に配置し、呂布は基本的に後方で遊軍として待機。開始と同時に一気に呂布以外城壁まで前進し、乱戦になったところを呂布が突撃して潰していきそのまま呂布以外攻城。その後は呂布が主に守りとして走り回り、張梁の黄巾の群れ、張宝の落雷、賈クの離間などを状況に応じて使う感じ。開幕決まったときは20カウントくらいでKOしてます。俺も覇王までたどり着きたいなー。

エセフェミ男とか隠蔽されるジェンダーとか

finalventの日記 恒例の社説チェックを読んでいて、毎日が少子化についての社説で

家庭が幻滅の源泉であるとすれば、理論的には夫婦の共同責任だが、現実には男の責めに帰すべきだ。なぜ? 私はフェミニストというほどの人間ではないが、この社会で、そして家庭で女性が割を食っているのは自明だと思う。

と、ライブドアPJ並の感想文(「自明だと思う」で片づけば便利でいいよね)を書いているのを知ったわけだが、この社説子は「フェミニストというほどの人間ではない」どころか、マッチョもいいところではないだろうかと思った。なぜか?それは自明だと思うから。

自明というのはもちろん冗談だが、家庭における夫婦関係であれ、一般的な男女関係であれ、そこには関係性というものが発生する。そしてそれは周囲の環境を考慮に入れず単純化すれば(そこまで考え出すと手に余るのでここではシンプルに考える)、双方の考え方や立ち居振る舞いによって定まるものであって、「現実には男の責めに帰すべき」などと一方の側に帰せるものではない。そして、責任を全て自分の側に帰すというのは一見ストイックでカッコよく見えるかも知れないが、実際のところは主体を自分の側に引き寄せて、関係性というものを一方的に規定する振る舞いでしかない。相手から主体と責任を奪い取る振る舞い、これがマッチョでなくてなんであろうか。結局のところ、かつての家父長制に支えられた「男」の尊厳が奪われていく中で、関係性を変えることができずに独りよがりな「理解者」の位置に立つことで尊厳を守ろうとしているだけに過ぎない、とまで書くと言い過ぎかも知れないし論証はできないが、直感としてはそう思う(って結局「自明だと思う」と大差ないですね。あはは)。

毎日の社説の話から外れて一般論で考えるが、エセ(とあえて書かせてもらう)フェミニスト男の物言いに多くの場合つきまとっているのは、自分のジェンダー に対する無自覚さ、あるいは自分のジェンダーを切り離した態度だ。簡単に言えば、男性である自分自身に根づいた性的な振る舞いや欲望と向き合い掘り下げることをせずに逃げているだけに見える。逃げの手段としてフェミニストを自称して、または自称せずともフェミニスト的な態度を取ることによって、女性の「理解者」として安全な位置に立とうとしているだけではないだろうか。そして、彼らは自らのマッチョな部分を隠蔽し続ける。

話が少しそれるかもしれないが、こうした態度はセックス(ここでの意味は性行為としてのセックス)と恋愛が切り離されつつある近年の風潮と関係があるようにも思える。いや、切り離されたのは単に恋愛からだけではなく、日常の様々な振る舞いからかもしれない。セックスそれ自体は昔よりもはばかられずに語られるようになったが、それは独立した欲望としてでしかない。そして、独立した欲望としてのセックスが語られやすくなった一方で、その裏返しとしてジェンダーフリーを装ったジェンダーの隠蔽が進んでいるのではないだろうか(念のため書くが、これは当然ながら、ジェンダーフリーを積極的に唱えている人たちがジェンダーを隠蔽しているという意味ではない)。切り離されたセックスが盛んに語られることで日常につきまとうジェンダーは忘れ去られ、表面的にはジェンダーは解放されていくがそれはあくまでも表面的なものであって内実は隠蔽されたまま何も変わらない、そんな社会になりつつある気がする。

名作マンガレビュー 帯をギュッとね! ~才能と努力の戦い~

週刊少年Blog!!”才能>努力”の少年漫画が多すぎ というエントリが盛り上がっていたので、努力の演出、というポイントに注目して懐かしの名作、帯をギュッとね! 通称帯ギュを紹介してみます。

帯をギュッとね!は1988年の終わりから1995年の終わりまで7年に渡って週刊少年サンデーに連載された柔道マンガです。作者はモンキーターンでも有名な河合克敏。浜名湖高校に入学した主人公粉川巧と斉藤、杉、三溝、宮崎の5人が柔道部を作り、高校日本一までたどり着く、王道のストーリーです。

主人公たち5人は、中学で黒帯を取ったそれなりに才能のある人間ですが、決して飛び抜けた天才ではなく、より才能と実力を持ったライバルたちに勝つために努力を続けます。マンガとしての一番の見所はもちろん試合のシーンですが、それに劣らぬくらい、練習のシーンもこのマンガの見所です。特に単行本22巻の「亀裂」からの数回はまさに才能vs努力の話で、この部分こそが帯ギュを名作たらしめた神髄と言っても過言ではないと思います。

「亀裂」からの一連の話では、インターハイ全国大会ベスト8に終わり、斉藤がさらに上を目指すためにもっときつい練習をしようと言うのに対し、杉、三溝、宮崎の三人は、これ以上の壁を越えることはできないと拒否します。これに対して主人公の巧は、きつく苦しい練習こそ楽しくやらなければ持続できないと斉藤を説得し、斉藤と二人できつくても楽しみを見いだせる目的意識の持てる練習を考え、これ以上上は無理だと言っていた三人を説得します。そして彼らはもう一度やる気を取り戻し、実力で上回る強豪たちを倒して日本一に輝きます。

才能と努力のせめぎあいは、バトルもののマンガでは重要な要素ですが、帯ギュの秀逸なところは才能の差をしっかりと描き、かつ、努力を単純な量的なものでなく創意工夫溢れるものとして描き、そして、勝負事は才能と実力で下回っても必ずしも負けが決まっているわけではなく、今まで培ってきた努力によって覆すことも可能だということを説得力持って描けているところにあると言えるでしょう。

才能>努力のマンガに飽き飽きしていて帯ギュを未読の方はぜひ機会があったら手に取って読んでみてください。